先般、村井教授の論考を2件ほど引用させていただいた。どちらも、さすがに安全保障の専門家が書いた、素晴らしい論考である。
ただし、小生には、若干の違和感がある。
一 米国が敗北したベトナム戦争について、ジョンソン米大統領は次のように述べていた。「国内に分裂と悲観論が広がり、国民の戦意が崩壊することが北ベトナムの頼みの綱であった」。
戦争は軍隊の戦闘能力と国民の戦う意志によって支えられている。国民の戦う意志が崩壊すれば戦争に負ける。米国より戦闘能力に劣る北ベトナムの戦略は、戦争を長期化して米国民の戦う意志を挫くことであった。但し、米軍と戦えば大損害を被ることは避けられず、大損害に耐えられる体制であることが前提になる。ベトナム戦争に負けた米軍の死者は5万8000人、勝ったベトナムの死者は300万人を超えた。
二 但し、もうひとつ重要な側面がある。それは日本国民の損害許容限度である。もし、日中両国が局地戦争を戦い、日本側に100人、中国側に200人の死傷者が発生し、日本が勝利して尖閣諸島を日本が確保した場合、200人の死傷者は中国にとって恐らく許容限度内であるのに対して、日本国民が100人の死傷者に耐えられなければ、中国が200人の死傷者を覚悟して戦争すると日本を脅迫すれば、日本政府はたとえ局地戦争に勝利できても100人の死傷者を避けるために中国に屈服するだろう。勝敗のカギは日本人の覚悟である。
この件だ。当時の考え方としては当然だろうと思料する。ただし、当時のと言う条件が必要と考える。では、現在と何が違うのか。
それは、米国も、戦前の帝国陸海軍も徴兵制だったが、現在は志願制に変わっていることだ。(米国の場合、徴兵制が完全に無くなったわけではないが、本稿の主旨ではないので、説明は省略する)。
徴兵制の場合、文字通り、徴兵可能な国民は、徴兵される。そして、戦うのだ。だから、全国民の戦う意志が、戦争遂行と勝敗に直結する重要な要素なのだ。
だが、志願制は違う。戦闘に参加するのは、「志願した者」なのだ。国民全員ではない。国民は、ある意味、傍観者なのだ。もちろん、自衛官が戦死したり、負傷したりするのは、国民の士気に大きく影響するだろう。だが、それが、戦争遂行に直結するかと言えば、しないだろう。
求められるのは、国民の覚悟ではない。政府の覚悟だ。国民は、戦争の結果についてのみ、賛否を明らかにするだろう。もちろん、結果についての賛否は、戦争の結果、全てについてだ。
自衛官の戦死、負傷、装備の損失、かかった費用及び戦争による国土、国民(非戦闘員)の被害だ。また、戦争の結果得た国益。たとえば、領土を守り切った。あるいは、奪われた領土を回復した。などが、戦争の結果得られる国益だ。
この損失と、利益(国益)について、国民は判断し、賛否を明らかにする。損失と利益をどのように認識するかは、政府と国民とで一緒になるとは考えにくい。そこにこそ、政府の政治的判断が必要なのだ。政府の覚悟とはこれだ。
志願制下の戦争による損失を国民はどこまで許容するか、利益(国益)をどこまで求めるか、非常に難しい判断になるだろう。どこまで国民に説明できるのかが問われべきであって、国民の覚悟ではないところが、判断を難しくしている。むしろ、国民全員が戦争に「参加」していないということは、純粋に国益の確保を最優先に、最後まで追求させる原因になってもおかしくはない。
両方を天秤にかけ、重さを判断する。志願制下の戦争とは、政府と国民に難しい判断を要求することだろう。なにせ、主権者とは国民に他ならないからだ。
結論だ。大東亜戦争の教訓の一つは、大日本帝国の究極の国益とは何なのか?ということについて、政府も国民も真剣に考えなかったところにあると、小生は考える。
つまり、戦後日本の、日本国憲法下における、我が国の国益とは何かをあらかじめ考え、国民のコンセンサスを得ておく必要があるということだ。戦争になってからでは遅い。憲法改正や、その他の戦争準備が間に合っていないからと言って、戦争は待ってはくれない。我が国が置かれている安全保障環境下において、法的制約の中で、追求すべき国益と、可能性、および予想される損失を冷静に判断し、大まかな国民の同意を得るプロセスが、今、一番求められていることだと、小生は考えるものである。
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一 米国が敗北したベトナム戦争について、ジョンソン米大統領は次のように述べていた。「国内に分裂と悲観論が広がり、国民の戦意が崩壊することが北ベトナムの頼みの綱であった」。
戦争は軍隊の戦闘能力と国民の戦う意志によって支えられている。国民の戦う意志が崩壊すれば戦争に負ける。米国より戦闘能力に劣る北ベトナムの戦略は、戦争を長期化して米国民の戦う意志を挫くことであった。但し、米軍と戦えば大損害を被ることは避けられず、大損害に耐えられる体制であることが前提になる。ベトナム戦争に負けた米軍の死者は5万8000人、勝ったベトナムの死者は300万人を超えた。
二 但し、もうひとつ重要な側面がある。それは日本国民の損害許容限度である。もし、日中両国が局地戦争を戦い、日本側に100人、中国側に200人の死傷者が発生し、日本が勝利して尖閣諸島を日本が確保した場合、200人の死傷者は中国にとって恐らく許容限度内であるのに対して、日本国民が100人の死傷者に耐えられなければ、中国が200人の死傷者を覚悟して戦争すると日本を脅迫すれば、日本政府はたとえ局地戦争に勝利できても100人の死傷者を避けるために中国に屈服するだろう。勝敗のカギは日本人の覚悟である。
この件だ。当時の考え方としては当然だろうと思料する。ただし、当時のと言う条件が必要と考える。では、現在と何が違うのか。
それは、米国も、戦前の帝国陸海軍も徴兵制だったが、現在は志願制に変わっていることだ。(米国の場合、徴兵制が完全に無くなったわけではないが、本稿の主旨ではないので、説明は省略する)。
徴兵制の場合、文字通り、徴兵可能な国民は、徴兵される。そして、戦うのだ。だから、全国民の戦う意志が、戦争遂行と勝敗に直結する重要な要素なのだ。
だが、志願制は違う。戦闘に参加するのは、「志願した者」なのだ。国民全員ではない。国民は、ある意味、傍観者なのだ。もちろん、自衛官が戦死したり、負傷したりするのは、国民の士気に大きく影響するだろう。だが、それが、戦争遂行に直結するかと言えば、しないだろう。
求められるのは、国民の覚悟ではない。政府の覚悟だ。国民は、戦争の結果についてのみ、賛否を明らかにするだろう。もちろん、結果についての賛否は、戦争の結果、全てについてだ。
自衛官の戦死、負傷、装備の損失、かかった費用及び戦争による国土、国民(非戦闘員)の被害だ。また、戦争の結果得た国益。たとえば、領土を守り切った。あるいは、奪われた領土を回復した。などが、戦争の結果得られる国益だ。
この損失と、利益(国益)について、国民は判断し、賛否を明らかにする。損失と利益をどのように認識するかは、政府と国民とで一緒になるとは考えにくい。そこにこそ、政府の政治的判断が必要なのだ。政府の覚悟とはこれだ。
志願制下の戦争による損失を国民はどこまで許容するか、利益(国益)をどこまで求めるか、非常に難しい判断になるだろう。どこまで国民に説明できるのかが問われべきであって、国民の覚悟ではないところが、判断を難しくしている。むしろ、国民全員が戦争に「参加」していないということは、純粋に国益の確保を最優先に、最後まで追求させる原因になってもおかしくはない。
両方を天秤にかけ、重さを判断する。志願制下の戦争とは、政府と国民に難しい判断を要求することだろう。なにせ、主権者とは国民に他ならないからだ。
結論だ。大東亜戦争の教訓の一つは、大日本帝国の究極の国益とは何なのか?ということについて、政府も国民も真剣に考えなかったところにあると、小生は考える。
つまり、戦後日本の、日本国憲法下における、我が国の国益とは何かをあらかじめ考え、国民のコンセンサスを得ておく必要があるということだ。戦争になってからでは遅い。憲法改正や、その他の戦争準備が間に合っていないからと言って、戦争は待ってはくれない。我が国が置かれている安全保障環境下において、法的制約の中で、追求すべき国益と、可能性、および予想される損失を冷静に判断し、大まかな国民の同意を得るプロセスが、今、一番求められていることだと、小生は考えるものである。
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