あめりかノート 古森義久 米国メディアの客観性とは 2023/2/26
有料記事なので、表題のみ引用しました。この記事は非常に興味深い内容について論じています。それはメディアの客観性です。焦点となる文章を抜き出しましょう。
〇米大手メディアの客観性の欠落という年来の現象。(古森)
〇報道機関は客観性を超えてこそ信頼を築ける。(アリゾナ州立大学ダウニー教授)
〇客観的なジャーナリズムを復活せよ。(米ウォールストリートジャーナル)
いかがでしょうか。メディアは公平中立でなければならない、客観的な報道が重要である、というのは年来メディアに求められる規範でしょうか。この客観性という主張は、いかにも間違いのない価値観であると、恐らく誰もが思うでしょう。古森記者も米大手メディアに客観性が欠けていると言っているので、同じくメディアには客観的な報道が求められていると思っているのでしょう。
そこに降ってわいたのがダウニー教授の主張です。もう少し引用しましょう。
「従来の客観主義は、明白な事実を個人的な信念や解釈、感情で歪めないというものである。これは白人男性の既成の規範であり、人種、女性、性的少数派、貧富の差、気候変動の取材でバランスを欠いた両論併記に陥らせる。」とし、報道に当たる記者は自分の価値観や信念を前に出し、政治活動家の役割を果たしてもよい、とまで主張していた。
この部分がこの記事の核心です。古森さんは自身の意見を表明してはいませんが、客観性が欠けていると言っているので、ダウニー教授の主張には批判的だと思われます。
酒楽は報道に客観性を求めるのは酷だと思います。どちらかといえば、ダウニー教授の主張に同意します。そもそも客観性を定義するのは困難です。どんなメディアであれ、客観的な事実を認定するのでさえ、差異があります。表現も異なるし、同じ事実に対し、正反対の報道が散見されるのを見れば、客観的事実が奈辺にあるのか、示すのでさえ困難でしょう。
何故かといえば、事実認定とは、何をどのように見るかという記者やメディアの立ち位置やものの考え方・価値観に左右されるからです。立ち位置もフィルターも異なるのですから、結果が異なるのは当たり前です。つまり、極端なことを言わせていただくなら、客観的な事実などこの世に存在しない、というべきでしょう。真相は藪の中なのです。客観的な事実などないというところから出発するべきです。
客観的な事実などない、メディアや記者によって異なる事実を異なる考え方で記事にしているのがメディアです。これでいいではないですか。客観的な報道に努めるというメディアの言い方は、読者を誤らせる原因だと酒楽は思います。客観的な事実があると思い込んでしまうところに報道の危うさがあるのです。
問題は、どんなメディアも等しく客観的な報道を心掛けていると言っていることです。ここまでくればご理解いただけると思いますが、立ち位置の異なるメディアに客観的な報道を期待するほうが間違っているということです。そもそも客観的と言いながら、見る視点が違うのですから、客観性が成立しないのは明らかです。ではどうすればいいのか?
立ち位置を明らかにせよ、ということです。それをもって記事を書けばいいのです。そうすれば、朝日だから産経だからこうなのだ、と理解できるでしょう。これを客観的という言葉でそれぞれが主張するから、みんなが「客観的だ」と誤解するのです。朝日的客観性と産経的客観性は違うのです。立ち位置を明らかにすれば、読む方も理解しやすいでしょう。
保守を任じる産経、反日を任じる朝日、こうすれば客観的だと酒楽は思う次第です♪
有料記事なので、表題のみ引用しました。この記事は非常に興味深い内容について論じています。それはメディアの客観性です。焦点となる文章を抜き出しましょう。
〇米大手メディアの客観性の欠落という年来の現象。(古森)
〇報道機関は客観性を超えてこそ信頼を築ける。(アリゾナ州立大学ダウニー教授)
〇客観的なジャーナリズムを復活せよ。(米ウォールストリートジャーナル)
いかがでしょうか。メディアは公平中立でなければならない、客観的な報道が重要である、というのは年来メディアに求められる規範でしょうか。この客観性という主張は、いかにも間違いのない価値観であると、恐らく誰もが思うでしょう。古森記者も米大手メディアに客観性が欠けていると言っているので、同じくメディアには客観的な報道が求められていると思っているのでしょう。
そこに降ってわいたのがダウニー教授の主張です。もう少し引用しましょう。
「従来の客観主義は、明白な事実を個人的な信念や解釈、感情で歪めないというものである。これは白人男性の既成の規範であり、人種、女性、性的少数派、貧富の差、気候変動の取材でバランスを欠いた両論併記に陥らせる。」とし、報道に当たる記者は自分の価値観や信念を前に出し、政治活動家の役割を果たしてもよい、とまで主張していた。
この部分がこの記事の核心です。古森さんは自身の意見を表明してはいませんが、客観性が欠けていると言っているので、ダウニー教授の主張には批判的だと思われます。
酒楽は報道に客観性を求めるのは酷だと思います。どちらかといえば、ダウニー教授の主張に同意します。そもそも客観性を定義するのは困難です。どんなメディアであれ、客観的な事実を認定するのでさえ、差異があります。表現も異なるし、同じ事実に対し、正反対の報道が散見されるのを見れば、客観的事実が奈辺にあるのか、示すのでさえ困難でしょう。
何故かといえば、事実認定とは、何をどのように見るかという記者やメディアの立ち位置やものの考え方・価値観に左右されるからです。立ち位置もフィルターも異なるのですから、結果が異なるのは当たり前です。つまり、極端なことを言わせていただくなら、客観的な事実などこの世に存在しない、というべきでしょう。真相は藪の中なのです。客観的な事実などないというところから出発するべきです。
客観的な事実などない、メディアや記者によって異なる事実を異なる考え方で記事にしているのがメディアです。これでいいではないですか。客観的な報道に努めるというメディアの言い方は、読者を誤らせる原因だと酒楽は思います。客観的な事実があると思い込んでしまうところに報道の危うさがあるのです。
問題は、どんなメディアも等しく客観的な報道を心掛けていると言っていることです。ここまでくればご理解いただけると思いますが、立ち位置の異なるメディアに客観的な報道を期待するほうが間違っているということです。そもそも客観的と言いながら、見る視点が違うのですから、客観性が成立しないのは明らかです。ではどうすればいいのか?
立ち位置を明らかにせよ、ということです。それをもって記事を書けばいいのです。そうすれば、朝日だから産経だからこうなのだ、と理解できるでしょう。これを客観的という言葉でそれぞれが主張するから、みんなが「客観的だ」と誤解するのです。朝日的客観性と産経的客観性は違うのです。立ち位置を明らかにすれば、読む方も理解しやすいでしょう。
保守を任じる産経、反日を任じる朝日、こうすれば客観的だと酒楽は思う次第です♪
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