<日本人の忘れられない中国>日中の棋士が集まるとなぜか腕相撲大会に―囲碁九段棋士 日本僑報社 2023年3月26日(日)
また、通訳以外にも大変お世話して頂いた王さんは、団員皆と沢山お話もしたし、大変奇麗な日本語と余りに博識な事に対して私に嫉妬心が芽生えた様で、ある時「王さん、立ちションという日本語をご存じですか?」「それは聞いた事有りませんね」「そうですか!」嬉々として解説した事、いくら半分子供だったとは言え、今思えば汗顔の至りです。
因みに、この時の通訳の王さんは、現在の王毅外務大臣(※執筆当時)、その人です。
王毅
王毅の年表が正しければ、1981年6月の訪中団の通訳をしたのは、王毅が北京第二外国語大学アジア・アフリカ語学部に入学している最中の出来事だと思います。次の年の2月に外交部に入省しているからです。
酒楽はザル碁を打つので、たまたまこの記事が目に留まり、読んでみたのです。記事の最後の部分を読んだときは大変驚きました。記事が事実なら、王毅は博識であり、日本語に堪能だったようです。
後に王毅は在日本大使になるのですから、人生はわからぬものです。大使時代は、今のように居丈高ではなかったと記憶しています。しかし、大使を離任し、外交部長官になってからは、おそらく公の場で日本語を話したことはないでしょうね。
誰にでも下積みの時代はあるものです。酒楽は、同期先輩後輩を見ていて、若いころから注目を浴びている人材が、組織の階梯を順調に登っていくのを見ましたし、前途有望だったものが、些細な失敗が原因でコースから外れたのも見てきました。最初から最後までトップを走り続けることは至難の業であり、そこには神様の計り知れない配慮があるのだろうといつも思っていました。
酒楽は、別に王毅が好きな訳ではありません。しかし、1981年、日本棋院の訪中団の通訳を担当し、日中友好に一役買ったことについては、素直に感謝したいと思います。
それにしても、と思います。この記事を読まなければ、王毅がかつて、日本棋院訪中団の通訳をして、訪中団を助けてくれたことを知らずにいたことでしょう。レコチャの「日本人の忘れらない中国」というコラムは、ときに素晴らしい記事を配信していることを改めて認識することになりました。
また、通訳以外にも大変お世話して頂いた王さんは、団員皆と沢山お話もしたし、大変奇麗な日本語と余りに博識な事に対して私に嫉妬心が芽生えた様で、ある時「王さん、立ちションという日本語をご存じですか?」「それは聞いた事有りませんね」「そうですか!」嬉々として解説した事、いくら半分子供だったとは言え、今思えば汗顔の至りです。
因みに、この時の通訳の王さんは、現在の王毅外務大臣(※執筆当時)、その人です。
王毅
王毅の年表が正しければ、1981年6月の訪中団の通訳をしたのは、王毅が北京第二外国語大学アジア・アフリカ語学部に入学している最中の出来事だと思います。次の年の2月に外交部に入省しているからです。
酒楽はザル碁を打つので、たまたまこの記事が目に留まり、読んでみたのです。記事の最後の部分を読んだときは大変驚きました。記事が事実なら、王毅は博識であり、日本語に堪能だったようです。
後に王毅は在日本大使になるのですから、人生はわからぬものです。大使時代は、今のように居丈高ではなかったと記憶しています。しかし、大使を離任し、外交部長官になってからは、おそらく公の場で日本語を話したことはないでしょうね。
誰にでも下積みの時代はあるものです。酒楽は、同期先輩後輩を見ていて、若いころから注目を浴びている人材が、組織の階梯を順調に登っていくのを見ましたし、前途有望だったものが、些細な失敗が原因でコースから外れたのも見てきました。最初から最後までトップを走り続けることは至難の業であり、そこには神様の計り知れない配慮があるのだろうといつも思っていました。
酒楽は、別に王毅が好きな訳ではありません。しかし、1981年、日本棋院の訪中団の通訳を担当し、日中友好に一役買ったことについては、素直に感謝したいと思います。
それにしても、と思います。この記事を読まなければ、王毅がかつて、日本棋院訪中団の通訳をして、訪中団を助けてくれたことを知らずにいたことでしょう。レコチャの「日本人の忘れらない中国」というコラムは、ときに素晴らしい記事を配信していることを改めて認識することになりました。
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