【主張】座間事件に判決 死刑の必要性を痛感する 産経新聞
https://www.sankei.com/column/news/201216/clm2012160001-n1.html
産経新聞が死刑制度の維持に賛意を示している。当然だ。殺人を犯した者が、死刑に処せされる。刑法として、至極真っ当な考え方だ。
日弁連は、論評するに値しない。この団体は、常日頃から死刑制度の廃止を提言しているが、我が国の弱体化を図る意図が見え透いている。
拙稿でも一度弁護士会について取り上げている。10月8日の記事「狼煙は上がった」で、死刑制度について触れている。
小生は、法律に関しては門外漢である。しかし、死刑制度には賛成である。理由は簡単だ。近代刑法は個人の報復権を否定する代わりに、国家による死刑制度を定着させたからである。個人の報復権(日本では一般的に「仇討ち」という)を否定する代わりに、国家が殺人犯を極刑に処することで、遺族の報復感情を満足させるとともに、社会正義と社会秩序を維持する。これが死刑制度の根幹を成す考え方であろうと認識している。

10月8日の主張は、これだけではないが、その一つが、死刑制度の必要性であり、エキスは、上記の通りだ。
表題で永山基準について触れているが、これが現在の日本を蝕んでいる元凶だ。産経の記事から引用する。
最高裁が連続4人射殺事件で昭和58年に示した死刑判断基準、いわゆる「永山基準」は
(1)犯行の罪質
(2)動機
(3)犯行態様、特に殺害方法の残虐性
(4)結果の重大性、特に殺害された被害者数
(5)遺族の被害感情
(6)社会的影響
(7)被告の年齢
(8)前科
(9)犯行後の情状
の9項目を総合的に考慮し、やむを得ぬ場合に死刑選択が許されるとした。
これが永山基準のエキスだ。小生は、この基準のうち「(4)結果の重大性、特に殺害された被害者数」に極めて重大な問題があると認識している。
それは「被害者数」だ。簡単に言うと、一人殺害しても死刑にはならない。二人以上で死刑になる。単純に言えば、これが永山基準だ。
正確には、例外規定もあり、必ずしも一人殺害でも死刑にならないわけではない。だが、論考をわかりやすくするため、基本的な考え方を示した。
これのどこが問題なのか?それは、殺人を犯しても、1名ならば死刑にならない、と国民が認識することだ。
事実、永山基準以降、1名を殺害した被告で、死刑になった例は数少ない。(4)項を除く他の理由で死刑になったものがいるが、少ないのだ。
永山基準は、死刑に対して慎重でありすぎるのだ。先日、光母子殺人事件の死刑判決が出た。メディアの報道によると、被害者の夫は、「もし死刑にならなかったら、どんな手段を使っても被告を殺す」と公言していたようだ。これが裁判に影響し、死刑判決となったと。
この裁判は、厳密には、永山基準の範疇ではないが、死刑に慎重な日本国司法と言う意味で、広義の永山基準に入ると思料する。
ここでの問題意識は、人間の持つ「報復権」だ。我が国は、仇討ちという報復権を是認していた歴史を持つ。是非は問わないが、家族を殺されたものが殺したものに復讐するというのは、ごく自然な感情であり、そうでなければ、所属する共同体は、根本から崩壊するだろう。そういうことなのだ。

因果応報なのだ。これは、利を求める、と言う人間の基本的な欲求と同じなのだ。生きていくうえで、絶対に譲れない感情であり、これを否定した社会は崩壊するのが必然なのだ。
だから、永山基準は問題があるのだ。1名なら殺してもいい。死刑にならないから。
事実、何例かの裁判で、被告がこのような供述をしている。これでは、被害者も、被害者の家族もやり切れないであろう。これで、どうやって、法治国家だと言えるのだ。人を殺しても死刑にならない世界は、外国だけにしてくれ。
死刑が嫌なら、我が国を脱出し、外国に行ってくれ。これが、日本人の心の叫びなのだ。
死刑制度の賛意を示すのは当たり前だ。永山基準を破棄すべきだ。これが、日本の国柄を根本から崩壊させつつある元凶なのだ。
<PS>
光母子殺人事件には、もう一つの問題がある。これはメディアの報道を根拠にしているので、事実と異なる可能性もあるが、小生の問題意識は以下の通り。
被害者の夫が「もし死刑にならなかったら、どんな手段を使っても被告を殺す」と発言し、これが死刑という判決を導いた、という報道だ。
報道が事実を報道しているかどうかはここでは問題にしない。
裁判所は「世論に阿(おもね)る」のか?と言う問題意識だ。時代の流れに応じて判決が変わる、世論の移ろいとともに、判決は変わる、ということなのだが。
法治の根幹の一つは、「判決の公平性」だ。もし、光母子殺人事件被害者家族の発言が判決に影響したというなら、裁判所の権威は地に堕ちたといわねばならない。
1名殺害した被告の裁判で、被害者家族が、光母子殺人事件被害者家族と同様の発言をした場合、判決はどうなるのだろうか?と誰でも考えるだろう。
少なくとも裁判所は、被害者家族の発言は、判決には全く影響はなかったと、釘をさす必要があったと、小生は考えるものである。でなければ、ことあるごとに同様の発言により、裁判結果が左右され、法治国家ではなくなるからだ。
https://www.sankei.com/column/news/201216/clm2012160001-n1.html
産経新聞が死刑制度の維持に賛意を示している。当然だ。殺人を犯した者が、死刑に処せされる。刑法として、至極真っ当な考え方だ。
日弁連は、論評するに値しない。この団体は、常日頃から死刑制度の廃止を提言しているが、我が国の弱体化を図る意図が見え透いている。
拙稿でも一度弁護士会について取り上げている。10月8日の記事「狼煙は上がった」で、死刑制度について触れている。
小生は、法律に関しては門外漢である。しかし、死刑制度には賛成である。理由は簡単だ。近代刑法は個人の報復権を否定する代わりに、国家による死刑制度を定着させたからである。個人の報復権(日本では一般的に「仇討ち」という)を否定する代わりに、国家が殺人犯を極刑に処することで、遺族の報復感情を満足させるとともに、社会正義と社会秩序を維持する。これが死刑制度の根幹を成す考え方であろうと認識している。

10月8日の主張は、これだけではないが、その一つが、死刑制度の必要性であり、エキスは、上記の通りだ。
表題で永山基準について触れているが、これが現在の日本を蝕んでいる元凶だ。産経の記事から引用する。
最高裁が連続4人射殺事件で昭和58年に示した死刑判断基準、いわゆる「永山基準」は
(1)犯行の罪質
(2)動機
(3)犯行態様、特に殺害方法の残虐性
(4)結果の重大性、特に殺害された被害者数
(5)遺族の被害感情
(6)社会的影響
(7)被告の年齢
(8)前科
(9)犯行後の情状
の9項目を総合的に考慮し、やむを得ぬ場合に死刑選択が許されるとした。
これが永山基準のエキスだ。小生は、この基準のうち「(4)結果の重大性、特に殺害された被害者数」に極めて重大な問題があると認識している。
それは「被害者数」だ。簡単に言うと、一人殺害しても死刑にはならない。二人以上で死刑になる。単純に言えば、これが永山基準だ。
正確には、例外規定もあり、必ずしも一人殺害でも死刑にならないわけではない。だが、論考をわかりやすくするため、基本的な考え方を示した。
これのどこが問題なのか?それは、殺人を犯しても、1名ならば死刑にならない、と国民が認識することだ。
事実、永山基準以降、1名を殺害した被告で、死刑になった例は数少ない。(4)項を除く他の理由で死刑になったものがいるが、少ないのだ。
永山基準は、死刑に対して慎重でありすぎるのだ。先日、光母子殺人事件の死刑判決が出た。メディアの報道によると、被害者の夫は、「もし死刑にならなかったら、どんな手段を使っても被告を殺す」と公言していたようだ。これが裁判に影響し、死刑判決となったと。
この裁判は、厳密には、永山基準の範疇ではないが、死刑に慎重な日本国司法と言う意味で、広義の永山基準に入ると思料する。
ここでの問題意識は、人間の持つ「報復権」だ。我が国は、仇討ちという報復権を是認していた歴史を持つ。是非は問わないが、家族を殺されたものが殺したものに復讐するというのは、ごく自然な感情であり、そうでなければ、所属する共同体は、根本から崩壊するだろう。そういうことなのだ。

因果応報なのだ。これは、利を求める、と言う人間の基本的な欲求と同じなのだ。生きていくうえで、絶対に譲れない感情であり、これを否定した社会は崩壊するのが必然なのだ。
だから、永山基準は問題があるのだ。1名なら殺してもいい。死刑にならないから。
事実、何例かの裁判で、被告がこのような供述をしている。これでは、被害者も、被害者の家族もやり切れないであろう。これで、どうやって、法治国家だと言えるのだ。人を殺しても死刑にならない世界は、外国だけにしてくれ。
死刑が嫌なら、我が国を脱出し、外国に行ってくれ。これが、日本人の心の叫びなのだ。
死刑制度の賛意を示すのは当たり前だ。永山基準を破棄すべきだ。これが、日本の国柄を根本から崩壊させつつある元凶なのだ。
<PS>
光母子殺人事件には、もう一つの問題がある。これはメディアの報道を根拠にしているので、事実と異なる可能性もあるが、小生の問題意識は以下の通り。
被害者の夫が「もし死刑にならなかったら、どんな手段を使っても被告を殺す」と発言し、これが死刑という判決を導いた、という報道だ。
報道が事実を報道しているかどうかはここでは問題にしない。
裁判所は「世論に阿(おもね)る」のか?と言う問題意識だ。時代の流れに応じて判決が変わる、世論の移ろいとともに、判決は変わる、ということなのだが。
法治の根幹の一つは、「判決の公平性」だ。もし、光母子殺人事件被害者家族の発言が判決に影響したというなら、裁判所の権威は地に堕ちたといわねばならない。
1名殺害した被告の裁判で、被害者家族が、光母子殺人事件被害者家族と同様の発言をした場合、判決はどうなるのだろうか?と誰でも考えるだろう。
少なくとも裁判所は、被害者家族の発言は、判決には全く影響はなかったと、釘をさす必要があったと、小生は考えるものである。でなければ、ことあるごとに同様の発言により、裁判結果が左右され、法治国家ではなくなるからだ。
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