昨日(12月20日)、年賀状を作成し、今日投函した。
日本郵政によると、確実に元旦に配達するためには、12月25日までに投函することを勧めているとのことだった。
だが、例年この期限を守るのはなかなかできなかった。今年は、珍しく間に合ったので、久々に安堵の胸を撫で下ろしたのであった。

ところで、年賀状を取り巻く環境は、大きく変わってきた。
昭和生まれの小生は、年末に年賀状を出して、元旦に受け取るのは当然と思ってきた世代だ。だから、年末の忙しい中で、せっせと毎年年賀状を書いて、投函してきたのである。
年賀はがきの売り上げは、ここ数年というか、長期低落傾向だ。そもそも若い人たちは、年賀状を出す習慣がない。あけおめ!のメールで済ますのが普通だ。
小生から見ると、何か味気ないように思うのだが、これも時代の流れというものか。
しかし、これでは時代に取り残されたオジサンの典型のようであろう。でも、そうでもない。小生も、密かに年賀状の削減に取り組んでいるのだ。
年賀状は貰うのは嬉しいが、出すのは面倒だ。小生の場合、十五年ほど前が絶頂期で、二百数十枚出していた。だが、その当時でさえ、「年賀状のやり取りを今年で終わりにしようと思います。永い間、ありがとうございました」という年賀状を、受け取ることがあった。
そんな人がいるのか?というのが当時の感想だった。だが、逐年そういう人が増えた。最近数年間は、そうやって、年賀状を終了する人が、年に数名いる。
そこで、小生も考えた。最盛期の頃、よく言われていた、「虚礼廃止」だ。虚礼などと言っては失礼かもしれないが、仕事の関係で、出さなければならない相手先がどうしてもいる。そして、仕事上の関係は、年々薄くなる。
場合によっては、この人誰だっけ?なんていうこともある。小生の場合、そこまでひどくないが、殆ど印象のない人がいたりする。
で、数年前から、そういう人との賀状交換を減らしてきたのだ。だが、これには、限界がある。相手も同じように考えていないと、うまく行かないのですな。

小生が、賀状を失礼する。当然、その年、相手の賀状はいただいている。次の年も失礼する。これで、相手方が気が付けば、それで終了だ。お互いに、阿吽の呼吸で、終了できる。
だが、小生が出していないのに、相手は、相変わらず賀状で年賀の挨拶をしてくる。こういう人は困る。居心地の悪さはいかんともしがたく、賀状を再開する羽目になる。しかも、小生のみ、罪悪感を背負いながら。
これでは、年賀状を減らすのが、何年かかるかわからない。やむなく、昨年、義理で賀状を交換していた相手に、「年賀状終了」の賀状を出した。
逐年減らしていた年賀状は、昨年の段階で、最盛期の三分の二くらいまで減っていたが、予定では、来年の賀状はさらに減って、半分以下になる予定だ。
なぜ、そうしたのかというと、数年来、終了通知を受けているうちに、ほっとするのが、偽らざる心境だったからだ。だから、昨年出した自らの終了通知は、おそらく、小生と同じく、終了したいと考えている、と小生が思った相手に出したのです。
相手のあることなので、そう思っている人と、そうでない人もいるでしょうが。大半はほっとしていると想像しています。
年賀状の交換そのものは、日本の素晴らしい文化だと思います。年の初めに賀状を交換し、旧交を温め、近況をお互いに伝えあう、いいじゃないですか。しかし、それも、親しい間柄に限定するのがいいと思います。
こういうときに、自分にとって、本当に大切なのは誰なのか、と言うのを考えさせられます。小生の場合、友人、恩師、仕事で指導をして貰ったり助けていただいた先輩。親戚。こんなところでしょうか。
年賀状の作成も様変わりしてますね。次回は、年賀状作成の顛末について、書きたいと思います。今日はここまで。
日本郵政によると、確実に元旦に配達するためには、12月25日までに投函することを勧めているとのことだった。
だが、例年この期限を守るのはなかなかできなかった。今年は、珍しく間に合ったので、久々に安堵の胸を撫で下ろしたのであった。

ところで、年賀状を取り巻く環境は、大きく変わってきた。
昭和生まれの小生は、年末に年賀状を出して、元旦に受け取るのは当然と思ってきた世代だ。だから、年末の忙しい中で、せっせと毎年年賀状を書いて、投函してきたのである。
年賀はがきの売り上げは、ここ数年というか、長期低落傾向だ。そもそも若い人たちは、年賀状を出す習慣がない。あけおめ!のメールで済ますのが普通だ。
小生から見ると、何か味気ないように思うのだが、これも時代の流れというものか。
しかし、これでは時代に取り残されたオジサンの典型のようであろう。でも、そうでもない。小生も、密かに年賀状の削減に取り組んでいるのだ。
年賀状は貰うのは嬉しいが、出すのは面倒だ。小生の場合、十五年ほど前が絶頂期で、二百数十枚出していた。だが、その当時でさえ、「年賀状のやり取りを今年で終わりにしようと思います。永い間、ありがとうございました」という年賀状を、受け取ることがあった。
そんな人がいるのか?というのが当時の感想だった。だが、逐年そういう人が増えた。最近数年間は、そうやって、年賀状を終了する人が、年に数名いる。
そこで、小生も考えた。最盛期の頃、よく言われていた、「虚礼廃止」だ。虚礼などと言っては失礼かもしれないが、仕事の関係で、出さなければならない相手先がどうしてもいる。そして、仕事上の関係は、年々薄くなる。
場合によっては、この人誰だっけ?なんていうこともある。小生の場合、そこまでひどくないが、殆ど印象のない人がいたりする。
で、数年前から、そういう人との賀状交換を減らしてきたのだ。だが、これには、限界がある。相手も同じように考えていないと、うまく行かないのですな。

小生が、賀状を失礼する。当然、その年、相手の賀状はいただいている。次の年も失礼する。これで、相手方が気が付けば、それで終了だ。お互いに、阿吽の呼吸で、終了できる。
だが、小生が出していないのに、相手は、相変わらず賀状で年賀の挨拶をしてくる。こういう人は困る。居心地の悪さはいかんともしがたく、賀状を再開する羽目になる。しかも、小生のみ、罪悪感を背負いながら。
これでは、年賀状を減らすのが、何年かかるかわからない。やむなく、昨年、義理で賀状を交換していた相手に、「年賀状終了」の賀状を出した。
逐年減らしていた年賀状は、昨年の段階で、最盛期の三分の二くらいまで減っていたが、予定では、来年の賀状はさらに減って、半分以下になる予定だ。
なぜ、そうしたのかというと、数年来、終了通知を受けているうちに、ほっとするのが、偽らざる心境だったからだ。だから、昨年出した自らの終了通知は、おそらく、小生と同じく、終了したいと考えている、と小生が思った相手に出したのです。
相手のあることなので、そう思っている人と、そうでない人もいるでしょうが。大半はほっとしていると想像しています。
年賀状の交換そのものは、日本の素晴らしい文化だと思います。年の初めに賀状を交換し、旧交を温め、近況をお互いに伝えあう、いいじゃないですか。しかし、それも、親しい間柄に限定するのがいいと思います。
こういうときに、自分にとって、本当に大切なのは誰なのか、と言うのを考えさせられます。小生の場合、友人、恩師、仕事で指導をして貰ったり助けていただいた先輩。親戚。こんなところでしょうか。
年賀状の作成も様変わりしてますね。次回は、年賀状作成の顛末について、書きたいと思います。今日はここまで。