人民は祝福しているのか?中国「建党100周年」のピリピリムード
言論を徹底統制し、祝賀行事は厳戒態勢
2021.7.1(木) 福島 香織 JBpress
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65904
習近平は今年、建党100年記念にちなんだ中国共産党簡史を出版したが、そこでは大躍進や文化大革命に対する記述が大幅に縮小された。第6章の「社会主義建設は曲折しながら発展した」という一節の中で、簡単に触れられているだけだった。習近平は文革について、鄧小平の「毛沢東の重大な過ちであった」という認定を否定しようとしている、とみられている。これは一種の歴史の改ざんではないか。
福島香織氏は、石平氏と並ぶチャイナウオッチャーの第一人者である。酒楽は、福島氏の記事を毎回楽しに見にしている。
今回、中共建党100周年に当たり、酒楽も二つほど記事をアップしたが、予想した通り、福島氏も新記事を配信してくれた。相変わらずの慧眼である。
その中で注目した箇所は、上記に抜粋した。それは、本記事の主旨の通り、相変わらず支那は、歴史を改ざんし、自分たちに都合のいいように書き換えているということだ。
今に始まったことではない。支那の歴史書の中では最高の出来栄えと言われている史記でさえも、漢帝国の恥部については筆致を抑えていると歴史学者は分析している。
それはそうだろう。史記の作者 司馬遷は、李陵を弁護したため、漢帝国第五代皇帝武帝の逆鱗に触れ、宮刑という辱めを受けたのである。男性としては、宮刑を受けるくらいなら死を賜る方がいいと思う者もあったという。
だが司馬遷は、その恥辱に耐え、史記を完成させたのだ。しかも、遺族に対し、自分の死後迄公開を禁じている。それは、漢帝国にとって、書いて欲しくないことを書いているからだ。自分と一族に難が降りかからないように備えたということだ。
だが、それでも事実を全て記述したわけではないと専門家が分析している。それは、他の歴史資料と突き合わせて明らかに誤っている箇所があるということと、敢て触れていない事実がある、ことだそうだ。酒楽は歴史学者ではないので、その真贋を判定する力はない。
だが、福島氏の論考を読めば、現在に至るも相変わらず歴史の改竄を行っているのだ。これでは、文明も文化も継続される可能性はない。だから「支那四千年の歴史」というのはそもそも嘘なのだ。
歴代王朝は、歴史が断絶しているのだ。易姓革命の国で、歴史が継続するわけがないではないか。前王朝は、悪政を行ったため、次の王朝が天命を受けて前王朝を亡ぼし、新しい王朝を開くのが、易姓革命というものだ。
そして、前王朝の歴史を記述するのは、次の王朝の仕事となる。従って、前王朝の末期は、悪政でなければならないのだ。そうでなければ易姓革命が嘘だとばれてしまうからだ。王朝の正統性を保つために、歴史は作られるのだ。福島氏の言葉を借りれば、歴史が改竄されるのである。
その現実を今回福島香織氏が詳らかにしてくれた。現政権に都合の悪い書類や歴史は抹殺されなければならないのだ。そして、それに抵抗する者、真実を明らかにしようとするものは、易姓革命の敵なので、抹殺されなければならないのだ。
歴史の事実を記した書物は焼かれ、歴史の真実を主張する者は、坑(あな)に埋められる運命にあるのだ。これを焚書坑儒という。
支那に伝統があるとすればこれだ。王朝が代わろうが変わらないもの、それが焚書坑儒だ。そして、もう一つある。ルールの無いのが唯一のルールだ。この二つが、支那の伝統である。二つ目は、酒楽の主張だ。
支那の民に善悪という概念はない、と酒楽は思っている。そんなことを信じていたら支那の地で生きていくことはできない。客をもてなすために妻を殺して食卓に供するのが支那なのだ。日本人には理解できないだろう。だがこれは事実だ。歴史書に普通に書いてある。
それ以外にも日本人や普通の人間には信じられない蛮行がオンパレードだ。それが支那の伝統なのだ。人が溢れ、食は豊か、必然的に激烈な競争社会である。残念ながら、農業に適さないヨーロッパは、支那に比較して大人口を養うことができなかったため、それほど激烈な生存競争にはならなかったのだ。だから、法治が生き延びだのだ。
支那の民のために弁護するならば、人が多すぎたために、法治などかまっていたら、生きていけない世界が支那なのだ。だから、ルール無用のサバンナが支那なのだ。
そして、変化に対応できたものだけが生き残っていける社会になったのだ。それは、仕方のないことなのだ。人間も生物なのだ。生きていくために、他人を殺さなけれなばならない非常な社会、それが支那なのだ。
だから、歴史を改ざんしても、儒者を坑に埋めても平気でいられるのだ。それが支那人というものだ。だから、焚書坑儒は今も生きているのである。
中国人が信用しているのは仲間内だけだ。仲間内なら嘘をつく必要はない。それ以外は基本敵だ。敵に嘘をつくのは当たり前、騙される方が悪いのだ。
人民は祝福しているのか?と問われれば、恐らく誰も祝福はしていないだろう。では中共政府の対外拡張戦略を支持していないのかと言えばそれは違う。支持しているだろう。利害の敵対する集団が競争しているのは、中国国内ということだろう。対外国ということになれば、利害は一致している可能性が高い。
だから、過酷な強権政治を敷く共産党政府と言えども、利益を得られると思えば、黙って従うのだ。彼らは利に聡いのだ。利益のためなら、なんでもするのが支那の民だ。
その代わり、利が無いと思えば、さっさと逃げるのである。習がこぶしを振り上げても、大きな反対が無いのは、独裁政治、強権政治の故であるが、そこに利益を見ているのだ、支那の民は。利のある所に蠢くのが支那人なのだ。
支那の民のために、利を生み出すことができなくなった時が、中共政権が終焉するときなのだ。習は、だから進まねばならないのだ。利を求めて。恐ろしい民族だ。
言論を徹底統制し、祝賀行事は厳戒態勢
2021.7.1(木) 福島 香織 JBpress
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65904
習近平は今年、建党100年記念にちなんだ中国共産党簡史を出版したが、そこでは大躍進や文化大革命に対する記述が大幅に縮小された。第6章の「社会主義建設は曲折しながら発展した」という一節の中で、簡単に触れられているだけだった。習近平は文革について、鄧小平の「毛沢東の重大な過ちであった」という認定を否定しようとしている、とみられている。これは一種の歴史の改ざんではないか。
福島香織氏は、石平氏と並ぶチャイナウオッチャーの第一人者である。酒楽は、福島氏の記事を毎回楽しに見にしている。
今回、中共建党100周年に当たり、酒楽も二つほど記事をアップしたが、予想した通り、福島氏も新記事を配信してくれた。相変わらずの慧眼である。
その中で注目した箇所は、上記に抜粋した。それは、本記事の主旨の通り、相変わらず支那は、歴史を改ざんし、自分たちに都合のいいように書き換えているということだ。
今に始まったことではない。支那の歴史書の中では最高の出来栄えと言われている史記でさえも、漢帝国の恥部については筆致を抑えていると歴史学者は分析している。
それはそうだろう。史記の作者 司馬遷は、李陵を弁護したため、漢帝国第五代皇帝武帝の逆鱗に触れ、宮刑という辱めを受けたのである。男性としては、宮刑を受けるくらいなら死を賜る方がいいと思う者もあったという。
だが司馬遷は、その恥辱に耐え、史記を完成させたのだ。しかも、遺族に対し、自分の死後迄公開を禁じている。それは、漢帝国にとって、書いて欲しくないことを書いているからだ。自分と一族に難が降りかからないように備えたということだ。
だが、それでも事実を全て記述したわけではないと専門家が分析している。それは、他の歴史資料と突き合わせて明らかに誤っている箇所があるということと、敢て触れていない事実がある、ことだそうだ。酒楽は歴史学者ではないので、その真贋を判定する力はない。
だが、福島氏の論考を読めば、現在に至るも相変わらず歴史の改竄を行っているのだ。これでは、文明も文化も継続される可能性はない。だから「支那四千年の歴史」というのはそもそも嘘なのだ。
歴代王朝は、歴史が断絶しているのだ。易姓革命の国で、歴史が継続するわけがないではないか。前王朝は、悪政を行ったため、次の王朝が天命を受けて前王朝を亡ぼし、新しい王朝を開くのが、易姓革命というものだ。
そして、前王朝の歴史を記述するのは、次の王朝の仕事となる。従って、前王朝の末期は、悪政でなければならないのだ。そうでなければ易姓革命が嘘だとばれてしまうからだ。王朝の正統性を保つために、歴史は作られるのだ。福島氏の言葉を借りれば、歴史が改竄されるのである。
その現実を今回福島香織氏が詳らかにしてくれた。現政権に都合の悪い書類や歴史は抹殺されなければならないのだ。そして、それに抵抗する者、真実を明らかにしようとするものは、易姓革命の敵なので、抹殺されなければならないのだ。
歴史の事実を記した書物は焼かれ、歴史の真実を主張する者は、坑(あな)に埋められる運命にあるのだ。これを焚書坑儒という。
支那に伝統があるとすればこれだ。王朝が代わろうが変わらないもの、それが焚書坑儒だ。そして、もう一つある。ルールの無いのが唯一のルールだ。この二つが、支那の伝統である。二つ目は、酒楽の主張だ。
支那の民に善悪という概念はない、と酒楽は思っている。そんなことを信じていたら支那の地で生きていくことはできない。客をもてなすために妻を殺して食卓に供するのが支那なのだ。日本人には理解できないだろう。だがこれは事実だ。歴史書に普通に書いてある。
それ以外にも日本人や普通の人間には信じられない蛮行がオンパレードだ。それが支那の伝統なのだ。人が溢れ、食は豊か、必然的に激烈な競争社会である。残念ながら、農業に適さないヨーロッパは、支那に比較して大人口を養うことができなかったため、それほど激烈な生存競争にはならなかったのだ。だから、法治が生き延びだのだ。
支那の民のために弁護するならば、人が多すぎたために、法治などかまっていたら、生きていけない世界が支那なのだ。だから、ルール無用のサバンナが支那なのだ。
そして、変化に対応できたものだけが生き残っていける社会になったのだ。それは、仕方のないことなのだ。人間も生物なのだ。生きていくために、他人を殺さなけれなばならない非常な社会、それが支那なのだ。
だから、歴史を改ざんしても、儒者を坑に埋めても平気でいられるのだ。それが支那人というものだ。だから、焚書坑儒は今も生きているのである。
中国人が信用しているのは仲間内だけだ。仲間内なら嘘をつく必要はない。それ以外は基本敵だ。敵に嘘をつくのは当たり前、騙される方が悪いのだ。
人民は祝福しているのか?と問われれば、恐らく誰も祝福はしていないだろう。では中共政府の対外拡張戦略を支持していないのかと言えばそれは違う。支持しているだろう。利害の敵対する集団が競争しているのは、中国国内ということだろう。対外国ということになれば、利害は一致している可能性が高い。
だから、過酷な強権政治を敷く共産党政府と言えども、利益を得られると思えば、黙って従うのだ。彼らは利に聡いのだ。利益のためなら、なんでもするのが支那の民だ。
その代わり、利が無いと思えば、さっさと逃げるのである。習がこぶしを振り上げても、大きな反対が無いのは、独裁政治、強権政治の故であるが、そこに利益を見ているのだ、支那の民は。利のある所に蠢くのが支那人なのだ。
支那の民のために、利を生み出すことができなくなった時が、中共政権が終焉するときなのだ。習は、だから進まねばならないのだ。利を求めて。恐ろしい民族だ。
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