中国で未成年へのオンラインゲームの提供に制限 ゲーム関連株は軒並み下落
2021-09-01 16:12 サーチナ
http://news.searchina.net/id/1701851?page=1
中国の国家新聞出版局は、中国の新学期が始まる8月31日に、「未成年のネットゲーム中毒の問題を予防するためのさらに厳格な管理について」という文書を発表し、未成年のネットゲームへの規制を強化した。
この文書によると、すべてのゲーム会社を対象に、未成年へのネットゲームの提供は週に3時間のみとするよう求められた。中国メディアの百度の報道でも「これまでも、国家はネットゲームについていろいろ意見を述べてきたものの、今回の法律はこれまでと比べても最も厳しいもの」と述べている。さらに、この「ネットゲーム」とは、「ネットに接続できるスタンドアロン型のゲーム機」も対象になっており、かなり厳しい規制となった。
記事の冒頭部分を引用した。
中国は最高に面白い国だ。先日、歌を禁止する政策について紹介したが、今回は、若者のゲームを制限する政策を発表したようだ。
素晴らしい政策だ。我が国も是非見習って、同じ政策を実施してもらいたい。
冗談はさておき、この種の禁止政策は、中国という国の特徴である。まあ、それ以外にも宗教的国家が同じようなことをしているが、それはこの際無視して、お隣中国の新政策を見てみよう。
先日紹介した石平氏であるが、石氏の主張には、いつも驚かされる。中国では西側主要国ではまず見ることのできない、この種、国民の自由を制限する政策が平気で行われる。
本の販売を規制する、歌ってはいけない歌を指定する、などなど。こんなことをして国民の考え方を支配しようと本気で考えているのか?という設問に対し、中共指導部は、本気で考えていると石氏は主張している。
中共は、人間の思考を支配できると考え、それを本気で実行しているのだ。これが石氏の主張である。
恐ろしい政権である。だが、焚書坑儒は、志那の歴代政権が行ってきたことだ。つまり、中共は、志那の歴史に忠実で、彼らだけが変わっているわけではない。
つまり、中国の歴代為政者は、人民を支配し、その精神まで支配できると本気で考えていて、それを延々と実行してきたのだ。
ゲームを制限するなど朝飯前であり、禁止でないところを見ると、政権の慈悲が感じられるくらいだ。
だが、志那の歴史を俯瞰すると、このような禁止政策に対して、民衆が反乱を起こしたという事実は、ほとんど知られていない。志那の民は、それほど政権に対して従順なのだろうかと、日本人なら誰しも思うだろう。
そこが大陸と大和の違いだろうか。志那の民は「上に政策あれば下に対策あり」という文化なのだ。お上がいろいろと民の生活を統制しようとするが、民は、それを柳に風と受け流し、どこ吹く風といった風情でしたたかに生きていく、それがかの国の民衆なのだ。
だから融通の利く社会になるのだ。中国人が日本人を評して、融通が利かない、と主張するのは、当然なのだ。我が国のように法治の文化はないので、お上が法律を制定して、民を統制しようとしても、民はあの手この手で法律を骨抜きにし、場合によっては、融通を利かせて、別の手段に訴えるのである。
先日、「日本は脱亜入欧に成功したのか」という記事を配信した。その中で、日本は法治文化を成立させたがゆえに、アジア的停滞から免れた、と主張したが、その本質はこれだ。
法治文明とは、融通が利かないものなのだ。融通が利いては、誰も法律を護るはずがないではないか。だから、4千年にわたって融通の利く社会を築いてきた志那に、そもそも法治は不可能なのだ。
そして、融通社会である志那は、為政者が民を信用していない。大和は逆に民を信用している。規制統制は、必要最小限にし、それ以外は、民の自主性に任せるのである。
志那はそうではない。為政者は民を信用していない。為政者から見て、民を統制しなければ、民は何をしでかすかわからない存在なのだ。それが、巡り巡って、政権を倒すような危険な動きをするかもしれない、だからそれを未然に防ぐために、焚書坑儒を行うのである。
ゲームを制限するのは、健全な青少年を育成するためだろう。趣旨はいいと思う。だが、それは政権が政策として行うことか?と法治国家の民なら誰でも思うだろう。
中国は、そうは思わないのだろうな。民は、放置していたら、野放図に怠惰な方向に行くものと、自律できないのが民であると、鼻からそう信じているのだ。でなければ、歌を禁止したり、ゲームを制限したりするものだろうか。
それは、家庭で行うものだ。親の責任だ。そんなものまで政府が口出しするな、これが大和であり、ヨーロッパの法治国家の国民が等しく思うことだろう。
為政者の考え方も民衆の考え方も、根本的に異なる。でも仕方がないではないか。志那大陸の文化、文明とはそういうものなのだ。今さら変えようがない。それが志那における正しい道なのだ。我々が口をはさむようなことではない。挟んでも無駄なだけだ。
我々が志那の文明を理解できないように、志那も民も大和の文明を理解できないのだ。だから、なるべく関係を持たないことがお互いの幸せのためなのだ。石氏も言っている。大和は、志那と離れているときがいい時代なのだと。
歌を制限されたら、カラオケ店でその歌が歌えないようなっているのだろうな。寂しい文化ではないか。
2021-09-01 16:12 サーチナ
http://news.searchina.net/id/1701851?page=1
中国の国家新聞出版局は、中国の新学期が始まる8月31日に、「未成年のネットゲーム中毒の問題を予防するためのさらに厳格な管理について」という文書を発表し、未成年のネットゲームへの規制を強化した。
この文書によると、すべてのゲーム会社を対象に、未成年へのネットゲームの提供は週に3時間のみとするよう求められた。中国メディアの百度の報道でも「これまでも、国家はネットゲームについていろいろ意見を述べてきたものの、今回の法律はこれまでと比べても最も厳しいもの」と述べている。さらに、この「ネットゲーム」とは、「ネットに接続できるスタンドアロン型のゲーム機」も対象になっており、かなり厳しい規制となった。
記事の冒頭部分を引用した。
中国は最高に面白い国だ。先日、歌を禁止する政策について紹介したが、今回は、若者のゲームを制限する政策を発表したようだ。
素晴らしい政策だ。我が国も是非見習って、同じ政策を実施してもらいたい。
冗談はさておき、この種の禁止政策は、中国という国の特徴である。まあ、それ以外にも宗教的国家が同じようなことをしているが、それはこの際無視して、お隣中国の新政策を見てみよう。
先日紹介した石平氏であるが、石氏の主張には、いつも驚かされる。中国では西側主要国ではまず見ることのできない、この種、国民の自由を制限する政策が平気で行われる。
本の販売を規制する、歌ってはいけない歌を指定する、などなど。こんなことをして国民の考え方を支配しようと本気で考えているのか?という設問に対し、中共指導部は、本気で考えていると石氏は主張している。
中共は、人間の思考を支配できると考え、それを本気で実行しているのだ。これが石氏の主張である。
恐ろしい政権である。だが、焚書坑儒は、志那の歴代政権が行ってきたことだ。つまり、中共は、志那の歴史に忠実で、彼らだけが変わっているわけではない。
つまり、中国の歴代為政者は、人民を支配し、その精神まで支配できると本気で考えていて、それを延々と実行してきたのだ。
ゲームを制限するなど朝飯前であり、禁止でないところを見ると、政権の慈悲が感じられるくらいだ。
だが、志那の歴史を俯瞰すると、このような禁止政策に対して、民衆が反乱を起こしたという事実は、ほとんど知られていない。志那の民は、それほど政権に対して従順なのだろうかと、日本人なら誰しも思うだろう。
そこが大陸と大和の違いだろうか。志那の民は「上に政策あれば下に対策あり」という文化なのだ。お上がいろいろと民の生活を統制しようとするが、民は、それを柳に風と受け流し、どこ吹く風といった風情でしたたかに生きていく、それがかの国の民衆なのだ。
だから融通の利く社会になるのだ。中国人が日本人を評して、融通が利かない、と主張するのは、当然なのだ。我が国のように法治の文化はないので、お上が法律を制定して、民を統制しようとしても、民はあの手この手で法律を骨抜きにし、場合によっては、融通を利かせて、別の手段に訴えるのである。
先日、「日本は脱亜入欧に成功したのか」という記事を配信した。その中で、日本は法治文化を成立させたがゆえに、アジア的停滞から免れた、と主張したが、その本質はこれだ。
法治文明とは、融通が利かないものなのだ。融通が利いては、誰も法律を護るはずがないではないか。だから、4千年にわたって融通の利く社会を築いてきた志那に、そもそも法治は不可能なのだ。
そして、融通社会である志那は、為政者が民を信用していない。大和は逆に民を信用している。規制統制は、必要最小限にし、それ以外は、民の自主性に任せるのである。
志那はそうではない。為政者は民を信用していない。為政者から見て、民を統制しなければ、民は何をしでかすかわからない存在なのだ。それが、巡り巡って、政権を倒すような危険な動きをするかもしれない、だからそれを未然に防ぐために、焚書坑儒を行うのである。
ゲームを制限するのは、健全な青少年を育成するためだろう。趣旨はいいと思う。だが、それは政権が政策として行うことか?と法治国家の民なら誰でも思うだろう。
中国は、そうは思わないのだろうな。民は、放置していたら、野放図に怠惰な方向に行くものと、自律できないのが民であると、鼻からそう信じているのだ。でなければ、歌を禁止したり、ゲームを制限したりするものだろうか。
それは、家庭で行うものだ。親の責任だ。そんなものまで政府が口出しするな、これが大和であり、ヨーロッパの法治国家の国民が等しく思うことだろう。
為政者の考え方も民衆の考え方も、根本的に異なる。でも仕方がないではないか。志那大陸の文化、文明とはそういうものなのだ。今さら変えようがない。それが志那における正しい道なのだ。我々が口をはさむようなことではない。挟んでも無駄なだけだ。
我々が志那の文明を理解できないように、志那も民も大和の文明を理解できないのだ。だから、なるべく関係を持たないことがお互いの幸せのためなのだ。石氏も言っている。大和は、志那と離れているときがいい時代なのだと。
歌を制限されたら、カラオケ店でその歌が歌えないようなっているのだろうな。寂しい文化ではないか。
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