作家の石原慎太郎氏が死去 2022/2/1 13:59 産経ニュース
http://www.sankei.com/article/20220201-TBYMYTLFR5NPFC2PRHU6HRSEWE/
元東京都知事の石原慎太郎氏が亡くなられました。89歳だったそうです。
石原氏は戦後日本の保守を代表する人物の一人だったと思います。歯に衣着せぬ発言は、時に物議を醸すこともありましたが、常に正論を貫く姿勢に同意することが多かったですね。
青嵐会を立ち上げたときの「血判状」は歴史に名を残しました。
「Noと言える日本」では、日の出の勢いのバブル全盛期、アメリカにケンカを売ったと話題になりました。
田中角栄に対して、批判したり、礼賛したり、評価が変わったのも石原氏ならではかもしれません。他の人では、とてもできない芸当でしょう。事の是非はともかく。
都知事への最初の挑戦では、当時の美濃部さんの前に一敗地に塗れましたが、後に雪辱しています。酒楽は、石原さんは都知事時代が一番輝いていたと思います。
国会議員時代は、やはりその尖ったキャラが災いし、多くの同志を糾合することには失敗しましたね。日本が議員内閣制を採用していることの弊害がこういうところにあると酒楽は思います。我が国が大統領制を敷いていたら、石原さんは大統領として我が国をあるべき道に導いてくれたのではないかと思います。残念です。
日本国憲法の制定には、法的疑義があり、日本国憲法を停止して、大日本帝国憲法を復活させるべきだと主張し、その大胆な意見は実現可能性を抜きにすれば、なかなか魅力的な案だと酒楽は思いました。ただ、石原氏の主張通りだと、日本国憲法制定から、廃棄までの歴史をどう総括するのだろうという疑問は残りました。
日本人が間違って制定された憲法を戴いて、何十年もそれに従ってきたという事実をどのように歴史に整合させようとするのかについては、説得力のある主張ではなかったように思った次第です。制定の経緯に疑問があったとしても、それを受け入れて、何十年も歴史を紡いできた日本と言う国の歴史を簡単に蔑ろにするわけにはいかないと酒楽は思います。
だから困難であろうとも、日本人の意志をもって日本国憲法を改正すべきだと酒楽は思います。これを乗り越えなければ、日本人は、独立を回復したとは言えないと思います。
昭和二十年八月十五日を終戦記念日ではなく、敗戦記念日と呼ぶだけの勇気と胆力を持たなければ、日本人は、マッカーサーが言った「日本人は12歳だ」という侮辱を覆すことはできないでしょう。
敗戦を敗戦と受け入れることがすなわち、憲法改正への近道だと酒楽は思います。歴史と真摯に向き合わなければ、憲法を改正することはできません。何故なら、日本国憲法は、敗戦憲法なのであり、敗戦と言う歴史的事実を事実として受け入れらない日本人は、マッカーサーの言う子供なのであり、一人前の国民国家ではないからです。
青い薬を飲んで、歴史的事実を事実として認識することが我が国再生の本質なのです。石原慎太郎は、それを我々に対して常に主張し、警鐘を鳴らしていたのです。私は、石原慎太郎を尊敬し、そして感謝するものです。
ご冥福を祈ります。

三島由紀夫と。奥にいるのが石原。1956年、千代田区紀尾井町の文春ビルにて(Wiki)
三島由紀夫とのツーショットですね。何とも象徴的な一枚だと思います。どちらも保守派の論客でした。三島は天才だと思いますが、天才であるが故の弱点も持っていたと思います。
自分以外が、自分の主張を理解しないという苦しさをいつも抱えていたのでしょう。その点、石原慎太郎の方が人間的でしたね。だから現実世界の行きつく先である政治の世界に入っていけたのでしょう。三島にはそれができなかったのです。行きつく先は自死だということなのですね。
さて、三島はともかく、石原慎太郎は、戦後の保守に大きな影響を及ぼしたと思います。保守論客は、あくまでも論客ですが、石原は、論客に甘えることなく、戦う道を選んだのですから、行動保守です。危険な男ですね(゚∀゚)でも酒楽は、石原さんが好きでした。行動保守の象徴、石原慎太郎は、我々の希望の星だったと思います。
高市さんは、石原慎太郎を超えるかもしれません。期待したいと思います。
http://www.sankei.com/article/20220201-TBYMYTLFR5NPFC2PRHU6HRSEWE/
元東京都知事の石原慎太郎氏が亡くなられました。89歳だったそうです。
石原氏は戦後日本の保守を代表する人物の一人だったと思います。歯に衣着せぬ発言は、時に物議を醸すこともありましたが、常に正論を貫く姿勢に同意することが多かったですね。
青嵐会を立ち上げたときの「血判状」は歴史に名を残しました。
「Noと言える日本」では、日の出の勢いのバブル全盛期、アメリカにケンカを売ったと話題になりました。
田中角栄に対して、批判したり、礼賛したり、評価が変わったのも石原氏ならではかもしれません。他の人では、とてもできない芸当でしょう。事の是非はともかく。
都知事への最初の挑戦では、当時の美濃部さんの前に一敗地に塗れましたが、後に雪辱しています。酒楽は、石原さんは都知事時代が一番輝いていたと思います。
国会議員時代は、やはりその尖ったキャラが災いし、多くの同志を糾合することには失敗しましたね。日本が議員内閣制を採用していることの弊害がこういうところにあると酒楽は思います。我が国が大統領制を敷いていたら、石原さんは大統領として我が国をあるべき道に導いてくれたのではないかと思います。残念です。
日本国憲法の制定には、法的疑義があり、日本国憲法を停止して、大日本帝国憲法を復活させるべきだと主張し、その大胆な意見は実現可能性を抜きにすれば、なかなか魅力的な案だと酒楽は思いました。ただ、石原氏の主張通りだと、日本国憲法制定から、廃棄までの歴史をどう総括するのだろうという疑問は残りました。
日本人が間違って制定された憲法を戴いて、何十年もそれに従ってきたという事実をどのように歴史に整合させようとするのかについては、説得力のある主張ではなかったように思った次第です。制定の経緯に疑問があったとしても、それを受け入れて、何十年も歴史を紡いできた日本と言う国の歴史を簡単に蔑ろにするわけにはいかないと酒楽は思います。
だから困難であろうとも、日本人の意志をもって日本国憲法を改正すべきだと酒楽は思います。これを乗り越えなければ、日本人は、独立を回復したとは言えないと思います。
昭和二十年八月十五日を終戦記念日ではなく、敗戦記念日と呼ぶだけの勇気と胆力を持たなければ、日本人は、マッカーサーが言った「日本人は12歳だ」という侮辱を覆すことはできないでしょう。
敗戦を敗戦と受け入れることがすなわち、憲法改正への近道だと酒楽は思います。歴史と真摯に向き合わなければ、憲法を改正することはできません。何故なら、日本国憲法は、敗戦憲法なのであり、敗戦と言う歴史的事実を事実として受け入れらない日本人は、マッカーサーの言う子供なのであり、一人前の国民国家ではないからです。
青い薬を飲んで、歴史的事実を事実として認識することが我が国再生の本質なのです。石原慎太郎は、それを我々に対して常に主張し、警鐘を鳴らしていたのです。私は、石原慎太郎を尊敬し、そして感謝するものです。
ご冥福を祈ります。

三島由紀夫と。奥にいるのが石原。1956年、千代田区紀尾井町の文春ビルにて(Wiki)
三島由紀夫とのツーショットですね。何とも象徴的な一枚だと思います。どちらも保守派の論客でした。三島は天才だと思いますが、天才であるが故の弱点も持っていたと思います。
自分以外が、自分の主張を理解しないという苦しさをいつも抱えていたのでしょう。その点、石原慎太郎の方が人間的でしたね。だから現実世界の行きつく先である政治の世界に入っていけたのでしょう。三島にはそれができなかったのです。行きつく先は自死だということなのですね。
さて、三島はともかく、石原慎太郎は、戦後の保守に大きな影響を及ぼしたと思います。保守論客は、あくまでも論客ですが、石原は、論客に甘えることなく、戦う道を選んだのですから、行動保守です。危険な男ですね(゚∀゚)でも酒楽は、石原さんが好きでした。行動保守の象徴、石原慎太郎は、我々の希望の星だったと思います。
高市さんは、石原慎太郎を超えるかもしれません。期待したいと思います。
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